「いま」に在ることができない。自然体でありたいと願いながら、在りのままの自分を受け容れることができない。そこはかとない不幸を感じる理由は、そこにあるかもしれません。「いま、ここ」感は、個人の全体的なエナジーの状態、ひいては、心身の健康やクオリティ・オブ・ライフとも深く関わっています。「いま、ここ」感は、それを得ようとするのではなく、それを阻むものを手放していったときに、ふっと訪れるもの。その阻むものとは何なのか。自らの内側を探っていくためのヒントを、あなたに。

目次
I.『いま、ここ』って何?
「いま、ここ」は、「無」の状態で、悟りの境地に近いといわれています。悟りなんて自分とは無縁、と思われる方でも、この感覚を味わったことはあります。
たとえば、目を閉じて、目の前のバラの香りに酔いしれる瞬間。

身体を動かしていて、その場面と自分が一体化したように感じる瞬間。

美しい景色に、自分が溶け込んだように感じる瞬間。

意識的に「いま、ここ」を増やしていくことで、無条件に自分を受け容れることができていきます。
「いま、ここ」の「いま」は時間軸の今とは違う
スピリチュアルでいうところの「いま、ここ」という言葉は、時間と空間を表すものとは異なります。過去や未来との対比である現在でもなければ、自分の地理的・社会的な立ち位置を示す場所でもありません。「いま、ここ」といいながら、時間と空間の縛りから解き放たれているような状態です。

時間軸を水平方向とするなら、「いま、ここ」は垂直方向、深さの次元です。自分が在る場面と一体化し、没入感があるため、気があちこちにいかず、自分は何者なのかという定義、アイデンティティも、自分の内側から消え去っています。矛盾しているようですが、「いま、ここ」感とは、「いま、ここ」に自分がいるということを肉体の感覚で実感するというよりは、「在る」という意識だけが瞬間瞬間に連続してあるという、エナジー体としての自分を認識している状態といえるでしょう。
その「在る」という意識は、自分が在ることを認識するというよりは、自分を含めて今この瞬間に在るすべてのエナジーを全体的に認識することだと私は思います。
たとえば、秋の夕暮れ時から宵にかけて賑やかに鳴く虫の声。それに耳を傾ける自分というものを客観視するというよりは、その虫の声と「共に在る」という一体感に自分が埋没しているという感覚に近いかもしれません。

「在り」ながら自分というものが「無」になる。エナジー体としての自分を感じるときは、全体と個が一体となり、自他の境界線や区別がなくなるとき。地球を生きる自分というより、多次元を生きる自分の認識となる瞬間であり、「いま、ここ」に在るすべてのエナジーを捉えることなのです。
「いま、ここ」に在らざるときは不幸?
時間の意識、空間の意識、自己の意識がない「いま、ここ」。
「いま、ここ」に在れば、無条件に自分を受け容れることができます。なぜなら、地球上の二元論からは別次元に在るため、そこには肯定も否定も、善悪も、正義も、始まりも終わりもなく、自分を制限・束縛する一切の定義づけから自由になるからです。
それでも人は、あらゆる条件をつけて批判的に自己を評価し「いま、ここ」に抵抗し続ける傾向が強く、『ニュー・アース』の著者エックハルト・トール氏の言葉を借りれば、「そこはかとない不幸」に陥りやすくなります。

たとえば、それはこんな感じで表われるかもしれません。
・自分を信頼することができない
・いつも漠然とした根拠のない不安を抱いている
・何が起こるかわからないから、明日が来るのが怖い
・未来に過度な期待をする
・変化が必要と頭ではわかっていても行動に移すことができない
・安心感を抱くことができない
・いつも理想の自分を追い求める
・いつまでもゴールに到達できない自分に苛立つ
・自分を人と比べて惨めな思いをする
・暇になると不安要素を探し始める
・自他に批判的
・充足感より、不足感のほうが常に強い
・自分を大きく見せようとする
・承認欲求が強い
・目標を達成した途端、それに満足することなく次の目標に走り続ける
・他者や外的要因に振り回され、一喜一憂する
・現実から逃避する
誰もが経験することばかりですが、こういった感じでずっと生きていくのはしんどいはずで、幸福感を日々感じられにくくなっていきます。それが当たり前になっている人は、「いま、ここ」からはぐれっぱなしなのかもしれません。
II.『いま、ここ』はぐれびとの自己
では、「いま、ここ」に在らざるときはどういう状態なのか見ていきましょう。

時間との意識、空間の意識、自己の意識がないのが「いま、ここ」。
逆に言うと、それらを強く意識しているときに「いま、ここ」からはぐれやすくなります。
時間軸+空間軸と自己軸で設定される座標
人は、自己というものを認識するとき、時間軸と空間軸を用いて捉えると仮定しましょう。
時間軸は、生から死に向かって直線的に流れる時計時間。
空間軸は、生活している国・文化の中の、自分と関わりのある社会/家庭環境。
時間軸と空間軸を足して、そこに「自己」を掛け合わせると、
「社会/家庭環境における○○歳/代の自己」という座標が生まれるとします。
ここでいう社会/家庭環境は、ただの空間というよりは、そこで関わる他者と、そこでその時代に重視されている一般常識や価値観を含めて認識されます。

人は、周囲の人や社会に自分がどう見られるかによって、自分をどう見るかを決めていきます。そして自分はこうだと定義していく。
すると、他者から見た自分、社会的に刷り込まれた価値判断基準での自分というものが常に、○○歳の自分を定義づけています。そこには、たとえば年齢相応かどうか、期待役割を自分がきちんと担えているか、社会的に成功しているかといった指標も加わるでしょう。
このように、人が自分を定義しようとするときは、時間軸も空間軸も必要とします。時間や空間といった評価軸をもって、自分の立ち位置を確認するということは誰しもが行っていること。ただ、そこのどこかにある種の執着が生まれると、人はバランスを崩しがちになります。
「過去の自分」「現在の自分」「未来の自分」の比重
その執着とは、自分とは「こうである」「こうあるべき」「こうありたい」にこだわり、過去、現在、未来という直線的な時間軸と空間軸に、自らを閉じ込めてしまっている状態です。自己意識が強ければ強いほど、時間と空間に支配されます。
いつか訪れる死を前提に時間を直線的に捉えていると、人は「過去の自分」「現在の自分」「未来の自分」のどれかに比重を置き、別のどれかが相対的に弱まる傾向があります。それは、無意識の部分で常に「理想的な自分」というものを軸に、自分を評価・判断しているからかもしれません。
「理想的な自分」というものを強く思い描く人は、現在のこの瞬間よりも過去や未来を重視する傾向があります。エックハルト・トール氏の言う「いつも過去か未来のことばかりを考え、自分がどんな人間かが過去によって決定され、自己実現を未来に頼ることになる」状態です。

「現在の自分」が過去によって決定され、「理想的な自分」は遠のいてしまったと捉えている状態
「過去の自分」を手放せない/手放す気がない
現在の自分は、過去に起こってはならないことが起こったことによって損なわれている
現在の自分は、過去に起こるべきだったのに起こらなかったことのゆえに欠陥がある
現在の自分の人生において、誰かが過去の自分にしたことを考え続け、許せないでいる
自分には変化が必要とわかっていても「過去の自分」から抜け出すことができない
「あのときこうしていれば」「こうだったかもしれない」と考え続ける
いつものやり方にしがみつく
抱きやすい感情:恐怖、不安、怒り、恨み、失望、後悔、罪悪感、欲求不満、自己憐憫、被害者意識、変化への恐れ

「理想的な自分」は未来に到来すると捉え、自己実現を未来に頼っている状態
現在とは、もっと「大事」だと思える未来に連れて行ってくれるという目的のための手段でしかなく、いつもどこかに行こうとして忙しく、腰を落ち着けることはできない
問題を解決しなければ幸せになれず、満たされず、本当に生き始めることもできないと思い込み、問題をひとつ解決するたびに、次の問題が現れるという終わりのないループにはまる
起こっていることや起こったことを憎んでいる
こうすべきすべきでないという判断や不満や非難であふれている
いつも「もしもこうなれば」というふうに生きている
いつか訪れる幸せを待ち続ける
抱きやすい感情:劣等感への恐れ、優越感への固執、不安、未来への過度な期待、非充足感、欠乏感、苛立ちや欲求不満、ストレス
いずれも、「理想的な自分」ではない「現在の自分」を否定的に捉えがちです。
しかし、「過去の自分」「現在の自分」「未来の自分」、そのどれもが、自らの思考によって作り出されているに過ぎません。