『ライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye)』で有名なアメリカの作家J.D.サリンジャー。ベストセラーとなったこの作品を最後に彼は表舞台から姿を消しました。映画『ライ麦畑の反逆児(Rebel in the Rye)』では、サリンジャーがその生き方を選択するに至った心理が描かれています。第二次世界大戦で一度失った「本来の自分」を再びたぐり寄せ、そこに留まり続けようとする葛藤。社会や人間関係をドライに切り捨てたように見え批判されるも、彼自身がその先に得たものは憂鬱な孤独ではなく、躍動する内なる自己の自由と平安だったのかもしれません。

青年期以降のサリンジャー
25歳のとき、第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦で戦闘に参加、戦争の悲惨さに堪えられず翌年には精神を病んだそうです。アメリカに戻ってPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされるサリンジャーは、理解のない精神科医に助けを求めることができず、東洋の思想に自ら救いを見出します。
その後『ライ麦畑でつかまえて』が出版され若者の間で一大ベストセラーとなったものの、サリンジャーは「書くことは続けるが、出版するためではなく自分のために書く」と言い、社会との接触を避けるべく田舎で隠遁的生活を送ります。
二度目だった結婚も破綻、娘からはその生き方を批判され、世捨て人であり孤独で寂しい老後だったという批評家もいる一方、91歳で亡くなった後の町の人々の証言によると、気さくに町の人々と会話したり、子供の遊び場として庭を開放したり、町の行事に参加するなど地域に溶け込んで暮らしていた普通の住人であったことがわかっています。
本当の自分を求めて
サリンジャーには、地位や名声で人の価値を測る欺瞞に満ちた物質的社会や、穢れなき子どもが無垢さを失う悲劇などへの嫌悪感がみられ、俗世間の破壊力が人の精神力を上回ると破滅につながるという内容の小説も書いています。彼自身も戦争の悲惨さを目の当たりにすることによって破滅しかねない状態でした。
そこで出会ったのが、東洋の思想。道教や老子、そして禅や東洋の思想を世界に広めた鈴木大拙にも影響を受けたそうですが、禅よりも「神」と個人的につながる道を示してくれると感じたヴェーダンタというインドの哲学に傾倒していきます。その教えを説いたシュリ・ラーマクリシュナの体験をも思わせる内容が『ナイン・ストーリーズ』の『テディ』にも見られます。

映画『ライ麦畑の反逆児(Rebel in the Rye)』では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えていたサリンジャーが戦地やナチス収容所の場面のフラッシュバックに悩まされます。そのとき、ラーマクリシュナ・ヴィヴェーカーナンダセンターの指導者に助けを求め、こう説かれます。
”心を乱すものは取り除けばいい”
最初は瞑想することによってそのフラッシュバックを取り除いていったようですが、自らの小説の出版に関して人から裏切られたことに失望、激怒したサリンジャーは、そういった煩わしさをも取り除こうと小屋を借りて執筆活動に専念します。やがて、彼が求める真理のみに関わって生きていくために社会から自分を切り離すべきだと考えるようになります。極端にも思える彼の行動ですが、本当の自分を取り戻すためには心に抱えていたものが大きすぎたのかもしれません。
あらゆる執着から自己を解放する
本当の自分を取り戻すためにサリンジャーがしていたことは何だったのか。
彼の友人だった作家リーラ・ハドリーが当時のサリンジャーについてこう語っています。
”あるとき、わたしが画家のクラナハの絵が欲しいって言ったら、「その絵を買う必要はない。 自分の頭のなかで所有することができるから」と言うの。1950 年代にしては考え方が進んでいたわ。つまり、物への執着が欲望を生み、欲望が苦しみを生む、となれば苦しみから逃れるためには…となるわけね。”
『サリンジャーを追いかけて』ポール・アレクサンダー著

『ライ麦畑でつかまえて』の後に二度と出版しないとする決断についてもそうだったのでしょう。出版されるはずだった自分の小説が取りやめになったことで恩師に裏切られたと感じ絶交してしまうサリンジャーは、出版への執着が欲望を生み、欲望が苦しみを生む、その苦しみから逃れるためには出版をしないという決断に至ったのかもしれません。
小説の風景の描写に見られるワンネス
サリンジャーが求めた真理とは、スピリチュアル的に言う「ワンネス(oneness)」だったように思えます。ワンネスとは存在の一体性。自分の中にすべての存在を見て、すべての存在に自分自身を見るという、「自分」と「それ以外」を分けない境界線のない世界です。美しい風景の中に身を置いたときに、その風景に自分が一瞬溶け込んだような一体感を感じたことはありませんか?これもワンネスです。そして、美しいと感じる対象だけではなく、不愉快と感じる対象にも一体性を見ることが本当の意味でのワンネスの実践です。

杉村泰教博士は論文『サリンジャーの芸術における無形の美』の中で「サリンジャーの作品の登場人物は、思想と美の一体となった風景を獲得できるか否かによって運命が決まるといってもよいであろう。」と言っています。たとえば、主人公の死をもって完結する短編小説『バナナフィッシュに最良の日』や『テディ』では、ものの形や陰影をくっきり映し出す明るい太陽と海という強烈なコントラストが主な舞台となっています。
これに対し、主人公が幸福感を覚えて終わる『ライ麦畑でつかまえて』を締めくくる雨の描写や「シーモア・序章」の夕景色は、あらゆる対象の輪郭をぼかすことで形を消滅させる効果を生み出し、単なる自然描写を超えて魂の奥深い部分に浸透する美しさ、いわば思想と一体になった美を感じさせる、と杉村博士は言います。
「美」は、すべての形から解放されたとき真価を発揮するが、それはあらゆる「執着」から解き放たれた自己の姿に他ならぬ
この「美」こそワンネス、と私は感じます。境界線のある世界と境界線のないワンネスの世界。自己を他者とは違う分離された存在とみるか一体の同じ神性な存在としてみるか。それによってサリンジャーの小説に登場する主人公の結末が変わります。『ライ麦畑でつかまえて』の最後にメリーゴーラウンドでただただ楽しそうにしている10歳の妹に、16歳のホールデンはあらゆる執着から解き放たれた自分の姿を見るのです。
社会的な価値観では測れない個人の幸福度
小説の中で描写している事実から、おそらくあらゆる執着から解き放たれた自己本来の姿と悟りの境地であるワンネスを見出したであろうサリンジャーですが、彼の世界との関わり方は、他の人には奇妙に映り、理解されずに批判されることもありました。共に暮らしていた妻は鬱病になり、娘は父としてのサリンジャーを批判する回想録を出版しています。

本来の自分やこの世界を生きることの真理を探求することによって自分にとっての幸福を見出すことができても、それが周りの人の幸福につながるとは限りません。妻は夫としてのサリンジャーとして、娘は父親としてのサリンジャーとして、社会はアメリカ文学の巨匠サリンジャーとして、家庭内の役割的価値・社会的存在価値と照らし合わせて人間としての彼を評価します。たとえそれが低いものだったとしても彼自身が不幸だったとは限らず、むしろ人間社会が創り出した価値観を超越していたとすれば、彼自身は幸福であったに違いないと思うのです。
今回はサリンジャーのこの世界との関わり方を勝手に解釈してみました。本当の自分を探求している方にとってヒントになれば嬉しいです。彼が深く傾倒したヴェーダンタ哲学も面白いので、いつかご紹介したいと思います。
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