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現実を創る、あなたの中の集合意識②

私たちが地球を生きるうえで、集合意識は切っても切り離せないもの。大切なのはそのつながり方、そして距離感です。集合意識は、私たちに深いレベルにおけるつながりや相互理解をもたらしてくれる一方で、私たちがそれぞれ体験する現実を動かすほどの影響力を持っています。無意識的に生きていたら、集合意識と一体化した自分を自分と誤認したまま、本当は求めていないものを求めてしまい、それを手に入れたとしても空虚感に苛まれるという悪循環を繰り返してしまうことも。あなたが思う「自分」はすべて、集合意識を通して作りあげたものかもしれません。自分という虚像に気づくことは、本来の自分を見つけるための欠かせないステップです。

この記事は、望む世界を創造するためのエナジーシフトにご興味のある方に向けたシリーズの第二弾。第一弾の「集合意識と現実」からお読みください。


 

目次


はじめに




III. 集合意識からの目醒め


IV. 目醒めのその先へ


 


それ、本当にあなたのものですか?


あなたが

○○しなければならない、○○すべき、と

果たすべき義務や責任のように感じていること


○○でなければならない、と

それが求めるべき状態のように思っていること


○○してはならない、と

制限・制約を課していること


○○でありたい、○○が欲しい、○○を得たい、と

欲し、願っていること


○○は良いこと/悪いこと、と

正義や善悪を判断していること


○○は恥ずかしい、と

気まずさや引け目を感じること


○○することは当たり前、と

習慣化し、強要すること


○○することは罪深い、と

自分や誰かを赦せず、償いを必要とすること


○○は美しい、と

何を美と醜とするかの基準を持っていること


これらはすべて、本当はあなたのものではないかもしれません。



II. 集合意識と自分


「自分」を占める、集合意識


結局のところ、私たちが持っている思考、感情、願望、信念、価値観、美徳、文化的・社会的・倫理的規範といったものは、どれも集合意識によるものなのかもしれません。集合体ごとに「こうである」と信じているものを、自分も受け入れてきた。そうすることが、この社会を、地球を、人間として生きるうえで役立つからです。


その中には、意識的に同意したもの、無意識的に合意したものとあり、無意識のものが圧倒的に多いでしょう。なぜなら、私たちは、体験そのものを無意識の領域で共有しているからです。つまり、実際に自分自身が体験したわけではない出来事を自分の体験として捉えたり記憶したりすることもあるということです。


日常生活においても、遠くの誰かの痛みをまるで自分自身が傷つけられたように受け止め、悲しみや怒りの感情が湧きあがっては特定の価値観を強化したり、社会全体に広く浸透した恐怖によって本当は何とも思っていなかったはずのものを怖れ始めたり・・・といったことは誰もが体験したことがあるでしょう。


集合意識で「自分」を認識している


なぜ、これほどまでに集合意識が自分の中に浸透しているのでしょうか。

それは、私たちが自分というものを、集合意識を通して認識しているからです。


時間と空間があって、私たちは初めて自己を認識することができます。

三次元の地球を生きている間は、誰もがその置かれている環境に照らし合わせて過去・現在・未来という直線の時間軸を頼りに、今の自分の座標を捉える傾向があります。


自分はどのような人物で、これまで何を体験し、何を考え、何を必要とし、何を感じ、どのような状態で、何を喜びや幸福と感じ、どこへ向かおうとしているのか。他者から自分はどう見えているのか。自分を見出そうとするときはいつでも、私たちはすべての人類と共有する集合意識にすでにある指標、価値基準を用います。


私たちはいつも、「自分」というものを、あるいは「自分たち」というものを、集合意識で認識し定義付けしていると言えます。


集合体に埋没する個人の意識


自己を認識することで、私たちは地球上の生活を楽しむことができます。それ自体、悪いことではありません。しかし、「自分とはこうである」という自らのアイデンティティやエゴを、何らかの集合体に帰属することで強化しようとするとき、本当の自分とは相容れない価値観をも自らにすり込んでいることはあります。


そして集合体とあまりにも一体化しすぎると、「当然のこと」を疑うこともなくなり、それがもはや自分のものではないことにすら自ら気づくことはありません。人が本来の自分を見失うときは、個人の意識が眠り、集合体に埋没しているときと言えるでしょう。


あなたが「自分」と思っているものの大半は、実は集合意識かもしれません。


たとえば、国や民族と、家族と、あるいは自分と同じ年代や性別の人たちと、同じ感情や価値観を抱かなければならないように感じたことはないですか?


願望ですら、あなた自身のものではないかもしれません。いま、あなたが欲しいと思っているもの、それ、本当に心から欲しいと思っていますか?あなた自身の望みですか?欲しいと言わなければならない、獲得しさえすれば幸せになれる、そんなふうに感じていませんか?


何を美とするか、何を善行とし、何を幸せとし、何を成功とするか、社会的に確立されているように思えたとしても、それは本来、個人が選択して自分のものとするかどうか選ぶことのできるものです。


集合体と「自分」が一体化しているサイン


集合意識を過剰に取り込み、集合体と「自分」が一体化しているとき、次のような傾向が見られるかもしれません。


  • 義務感や責任感から行動することが多く、プレッシャーを感じやすい

  • マイルールが多い

  • 正義感や罪と罰の意識が強く「良い悪い」の線引きがはっきりしている

  • どこか後ろめたさ、罪悪感を抱きながら生きている

  • 幸せの定義に縛られ「理想」とする状態に到達しなければ不幸せだと思う

  • 自分の心からの望みがわからない

  • 感覚よりも思考で判断することが多い

  • 「当たり前のこと」ができない自分や他者に苛立つ

  • 赦せない人がいる、許せないことがある

  • マジョリティに圧倒されやすい

  • 自己否定感や自己嫌悪感に苛まれることが多い

  • 自分を他者とよく比較する

  • 常に「やるべきこと」に追われている

  • いつもどこか満たされない


一言でいえば、自分が何をしようがしまいが、自分のことを無条件に認めてあげることができないときは、集合体の中に「自分」を見出そうとしすぎている傾向があると言えます。


本当は、心のどこかで気づいているはずなのです。自分の中に、自分のものではない感情や価値観、信条というエナジーがあることを。自分の内側に異物があるような感覚は、自分に対する嫌悪感となることがあります。


「自分」を属性の中で見出そうとすると生まれる分離感


自分のことを一個人の「私」と認識しながら、感覚、知覚、思考、感情を体験するとき。

自分のことを何らかの集合体に属する「私たち」と認識しながら、感覚、知覚、思考、感情を体験するとき。

そのいずれも、孤立感や分離感を生むものかもしれません。


「私」あるいは「私たち」というものを何かを通して見出そうとするとき、そこに生まれるのは「私」と「それ以外」、「私たち」と「それ以外」という、「他」との区別だからです。身体的、社会的、文化的、あらゆる側面における区別は、「自分」や「自分たち」の特別感となり優越感や劣等感を生みます。


人は、集団に属しているという安心感や安全感を得ようとするところがありますが、帰属意識が高ければ高いほど、逆に分離感は強まるでしょう。どんな集合体であれ、個人がそれとまるっきり同じ価値観を抱くことなんてできないからです。


そして、自分が他者から分離していると感じたり、他者を自分から分離しようとしたりして、常に自分や他者を「○○である」「○○でない」というところを見ようとしがちになるでしょう。この分離の幻想によって、内側に孤立感や怖れ、葛藤や焦燥感を抱きやすくなり、対人関係においては、対立、衝突、競争につながることがあります。


属性を超えたところにある本来の自分


"To be yourself in a world that is constantly trying to make you something else is the greatest accomplishment. 絶えずあなたを何者かに変えようとする世界の中で 自分らしくあり続けること それがもっとも素晴らしい偉業である" -- Ralph Waldo Emerson


自分らしく生きることが長年できてこなかった理由が、集合体と共有してきたものの本来の自分とは相容れない価値観や信条にあり、すべての不幸や生きづらさはそれによって生まれた分離の幻想によるものだとしたら、まず「自分」や「自分たち」を強調しようとするすべての試みから自分を解放する必要があります。


そのためにはまず、これまでの「自分」や「自分たち」は、本来の自分ではないと気づく。自分が本当は望んでいないことを山ほど自らに課してきたことに気づく必要があります。


心からの望みと言動が一致せず、自分の心に嘘をつきながら生きていると、葛藤や未解決の感情が心身の不調和となって表れます。自分探しをしているつもりが、自分ではないものでいっぱいになっているとき、自分を見つけるどころか自分を見失い、満たされているという感覚からはほど遠くなります。


本来の自分とは、属性によるアイデンティティの強化とは真逆にあります。つまり、本来の自分は属性を超えたところにあるのに、属性にとらわれていてはただ彷徨い続け、いつまでたっても本来の自分を生きることなどできないのです。


この世界を生きるうえで必要とされた常識や暗黙のルールというものがいかに自分の中に根づいているかに気づいたとき、個人の意識が目醒め、自分に最適な価値観を選び直す意識に変わることができるでしょう。


次回の記事(近日公開)では、「これまでの自分」を超えてあなた個人の意識を取り戻すための方法についてシェアしたいと思います!




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